「きみの未来にあかりを灯したい」

 
 
 2022年4月、白浜町に竹あかりや工芸品などを作る就労継続支援B型事業所「キミト☆ミライ」がオープンする。ここは働くことをサポートする福祉サービス。障がいがあり一般企業への就職が不安、困難という人に向け、軽作業などの就労訓練を行う。この事業を立ち上げた谷正義さんの想いとは――。
 
 

 「竹あかりに出会ったのは、もう3年くらい前です」老人ホームやデイサービスセンターを運営する谷さんが、竹に穴をあけ、あかりを灯す“竹あかり”を知るきっかけは、自閉症の長女が下校中に同級生から道に生えた草を食べさせられるといういじめにあったこと。そんな彼女を励ますために足を運んだ広島の竹あかりイベントで、その美しさに魅せられ、和歌山でも広めたいと精力的に動き出した。子どもでも作品を作れる取り組みやすさ、そして仕上がりの美しさに竹あかりファンはどんどん増加。一繕に活動することで長女も少しずつ元気を取り戻していった。その後、白浜アドベンチャーワールドの協力で、パンダの餌となる岸和田産の竹からパンダが食べられない廃棄予定の竹幹が提供されると、白浜町内では竹あかりがどんどん知られるように。さらに町内のホテルから作品の展示依頼があったことから、ずっとボランティアで行ってきた竹あかりを継続的な事業として展開できるよう、『株式会社竹千代」を設立。「観光って字を見ていただくと〝光を観る〟って書くんですよね。今、竹あかりが白浜で活発になっているのも何かのご縁なのかとも思います。そこにアートと福祉を織り交ぜたものをできるといいなと思いまして」そして来春、たくさんの人の協力を得て、谷さんの目標のひとつが形になる。
 
 
 
 キミト☆ミライでは竹あかり製品の製作・販売に加え、地元農家の協力のもと一緒に農作物を育て収穫する農福連携や、誰もが取り組みやすい軽作業の提案をしていく。また施設内の敷地には竹製のジャングルジムやブランコのある〝竹あかり公園〟を作る。「皆さんにもバザーなどで有効活用していただく、誰もが利用できる公園にしたい」と地域の人とコミュニケーションがとれる場にしていきたいと谷さんは話す。そしてそれがもうひとつの目標に繋がっていく。
 
 
 
 「これは5年先、10年先の話になるかと思うんですが、ここにアパートを建てたいんです」そこには様々な介護の現実を見てきた谷さんの、受け皿の構想があった。「〝親亡きあとの介護〟ってご存知ですか?例えば8050問題、この中には我が子どもの障がいを隠して大人になっていって、そのうち親は亡くなってしまい、その子は相談する場所もなく孤独死してしまう、こういった事案も多いんですよ。だからイベントなどを通して、垣根を超えて繋がって、〝知る〟ということをしてほしいんです。相談しても良いんや、できる場所があるんやって、知るきっかけを作っていきたいんです」谷さんが考えるのは、一般の集合住宅で、さらに支援もできるところだという。「今はもう、障がい者が入れるグループホームや施設もいっばいなんですよ。じゃあ家で暮らすっていってもトラブルが起きたりする。だから障がいのある人もない人も住めるような集合住宅を造りたいんです。グループホームや老人ホームって名前を付けると決まった人しか利用できないので」そしてその集合住宅の一角にはカフェも併設し、施設の利用者が畑で作った野菜や果物を使い、店員として調理・販売もできるようにする計画もあるという。すでにこの地産地消カフェは県内の飲食店と話を進めているのだとか。
 
 
 

 「ただ、僕も人のために頑張ってるように見えますけど、根っこのところは自分や家族のためなんです」と声を落とした。「先ほど10年先の話って言いましたが、長女が今10歳で10年後は二十歳なんです。その時に働けるところを作っておきたいんです。娘の将来の夢がケーキ屋さんになることなので、そういう場所を今から作っておきたいんです」きっとずっと支援が必要になるだろう我が子が、できるだけ自立した生活を営めるようにしていきたい――、この事業「キミト☆ミライ」の根幹にあるのは谷さんの親心なのだ。〝親亡きあと生きていけるのだろうか〟ではなく、生きていくための術が身に付くように教え、環境を整えることは障がいのあるなしに関わらず、親が子に残したい財産のひとつだ。

 
 
 
 そして就労支援や生活支援など、障がいや因りごとを持つたった人が自分らしく生きていけるためのサポートがなぜ必要なのか、それは彼自身がヤングケアラーだったことにも繋がる。ヤングケアラーとは家族の介護や身の回りの世話を担う18歳未満の子どものこと。「僕は9歳から弟と一緒に親を介護してきたんです…」と、当時のことを振り返った。「父が鬱病、母が統合失調症で、僕は殴られたり、暴言を受けたりしながら家のことをしてきました。時には包丁を突きつけられたこともあります。子どもだったから逃げることもできやんし」。「だけど中学生の時に転機があったんです。父ちゃんは半年くらい働けなくて、母ちゃんは暴れてしまうんで薬で寒たきりになっていたんです。本当に食べるものもなくて、恥ずかしい話、ゴミをあさったりもしたんです。そこでさすがに僕も腹が立って「お前らええかげんにせえよ!俺らが苦しいのが分からんのか!子どもが飯も食われへんのになんで寝てるんや!なんで働かへんのや」って怒鳴りつけたんです。そしたら母ちゃんの右目から涙だけツーッと流れて…。その姿を見て気づいたんです、好きで病気になったわけじゃないんやつて…。病気のせいで地域の人からも疎まれて、子どもにこんな風に言われてる親の方が、自分よりもよっぽどかわいそうやって思ったんです。この人らが社会に理解してもらうためには、僕らが頑張らんとあかん。立派な息子さんですねって親が言われるように。その後は、仕事をしながら夜間高校に通って、家事をして…」こうして谷さんは成人した後は介護職につき、その経験を活かして弟さんと起業、介護施設を運営し、今も親の介護を続けている。
 
 
 
 「当時は、こういうことを人に言うと『親のことを悪く言うもんじゃない』って言われたりもしました」だが果たして本当にそうだろうか、彼が発したのは親への悪態ではなく、SOSだったのではないだろうか。谷さんは親や祖母の介護だが、世の中には障がいのある兄弟の世話をするために生んだのだと言われ、生涯に渡り家族を背負う生き方を余儀なくされる子どももいる。家族が支え合うのは自然かもしれないが、生まれながらに誰かのために人生の全てを捧げるのはあまりにも過酷だ。だから他者との関わりや、自分でできることを増やすといった、様々な生きる術を身につけることができれば、障がい者本人もサポートする家族も、生き方に変化が生まれるかもしれない。
 
 
 
 そんな谷さんに、「親や子をネタにするなって言ってくる人もいます」。でも実際に谷さんが経験してきた人生、彼自身が当事者だ。家族を守りたいと思うから、何が求められているのかも見えてくる。「だけど僕もひとりだとやっぱりパンクしてしまうんです」竹あかりの事業が忙しくなり奔走するようになった頃は、家族との時間が充分に取れず負担をかけてしまったと話す。「長女がいじめられたとき、すぐに助けてあげられなかった自分が情けない。長女ばかりにかまって次女が寂しい思いをしていたとき、そのSOSに気づいてやれなかった自分が情けない」。たとえ社会のために動いたとしても、それで家族との関係を疎かにしていい理由にはならないと谷さんは漏らした。そして誰しもひとりでは限界があるからこそ、誰もが参加しやすく、助け合える環境作りが必要なのだと訴えた。医療も科学も日進月歩の今、これまで障がいと呼ばれていた個性はダイバーシティ(多様性)へ。少数派が弱者と呼ばれる時代が終わるとき、人類が永年誇ってきた知性が本当に意味のあるものになったと言えるのではないだろうか。「辛いこともあったけど、だから今、認められたいと思って頑張れたりするのかなって思います」こうして働ける自分だって沢山の人に支えられ、応援され、活動している。谷さんの手掛ける「キミト☆ミライ」は誰もが前を向いて活き活きと生きられる未来を目指している。
 
 
「フリーペーパー ココラデ 2021年12月号より」